「占領期の朝日新聞」読み終わる。レッドパージのところ。特に戦後ウィロービーがゾルゲ事件に興味を持ち、朝日新聞に圧力をかけて笠信太郎をやめさせようとしたという箇所は興味深い。
笠は敗戦を確かスイスで迎え、この時点ではまだ日本に帰国してそう時間が経っていなかったと記憶している。ペンクラブの国際会議に、戦後日本人で最初に出席したのは、当時スイスに滞在していた笠だった。
笠は朝日新聞入社前は、計量経済学を研究していた人間だし、芹沢の大学で同期だった有沢広巳とも関係があったから、芹沢と関係があってもよさそうだが、私が芹沢の作品を読んだ限りでは、笠がモデルではと思う人物が登場してこない。
笠が戦前、特高に逮捕されなかったのは、朝日の主筆であった緒方の庇護のためだろう。昭和研究会時代は、勤務先の朝日新聞より昭和研究会の方にいる時間が長かったとかいわれていた。
「出版編集者」42頁まで。戦前の軍に協力的だったとされる講談社や旺文社といった出版社をその他の出版社ともめる話が中心。終わりかけのところで、中央公論の話がでてくる。嶋中社長が蠟山正道や林達夫といった文化人を幹部に招いたところが出てくる。
この嶋中氏が中央公論を買収したことに関しては、MBOの昭和初期の稀有な成功例ではないかと思っており、それなりに興味があるが、林達夫が中央公論の出版局長をしていたのは知識上は知っていたが、それがどのような経緯があったのかは知らなかった。
「歴史の暮れ方」は、私が受験生だったころの必読書であったが、その著者の林達夫は一高時代、芹沢の同期で、西田幾多郎にあこがれて一高から京都大学に行った数少ない一群の一人である。
芹沢の作品で、主人公がフランスから帰国した後、「あの林君などはどうしているだろう」とか書いて、その後林の話は全くでてこなくなる。ちなみにいえば、このとき林はすでに岩波の「思想」の編集にあたっていて、知識人として一定の評価を得ていた。芹沢がそれを知らないはずはないと思うのだが、林は芹沢の作品に登場してこなくなる。同じような経歴を持つ三木清を芹沢がさんざん作品に登場させるのは、ようは三木が誰でも知っている著名な知識人で、「改造」等で活躍する花形評論家であったからで、当時の肩書であった法政大学教授としてではないことに着目しないといけないであろう。
芹沢にとって、林達夫は彼の作品に登場させるのには地味で、芹沢の作品を読む程度の読者では林の名前を出してもわからないからであろう。そういうところは芹沢にはある。一番ひどいと思っているのは、群馬県の強戸村(当時)の須永好に対するものなどがそれを裏付ける。
戦前発表作の「男の生涯」では、主人公が農務省に入省して以降、小作調査のため須永のところを坂田英一に同行して訪れるのだが、このときは実名をだして「お世話になった」とかさんざんかいているのに、須永が戦後社会党から立候補し、登院直前に死亡したこともあって、「人間の運命」執筆当時には既に亡くなって相当の年数を経過して須永の名前が一般的に忘れられていたこともあってか、同じ場面では相当あっさりした表現となっている。これを最初に気がついた時、「芹沢って、こいつ人間的に最低な奴やな」と思ったことがある。
これに類した話では、フランスに留学していた当時の同じ下宿にいた演劇評論家の進藤誠一もそうである。彼の存在は芹沢の作品から完全に抹殺されている。これは「日本人とあまり話さない」ということを書いたことが理由であろう。そこに下宿で日本人がいたら、それは芹沢にとってまずいからであろう。しかも進藤は三高、京大とフランス文学の研究者である河盛好蔵と同期だから、まったく縁がない人間ではないのだが……。それは進藤が京大出身だからであろうと私は睨んでいる。私の周辺の京大もしくは同志社の関係者で、芹沢のことを「あいつ最低な奴や」とかいう人間は数年前までは結構いたように記憶している。芹沢も適宜随筆に書くことがあるので、知らなくはなかったのであろうとは思う。
「加瀬俊一回顧録下巻」24頁まで。この加瀬という人間も私は未だに好きになれない。人間人より長く生きれば、死人に口なしだから、何でも言えるよねという典型的な人間と思う。今敗戦の時のミズリー号で、降伏文書に連合軍の確かカナダ代表がサインする場所を間違えたのを、指摘して強硬に訂正を求めたのは誰かということに興味がある。加瀬はそれは自分の手柄であると再三死ぬ直前に発表した著作まで書いているが、同じく海軍の大本営を代表する形でいた冨田という少将は、外務省の条約局長だった岡崎勝男であると書いているのだが、私も役目がら岡崎であるように思うのだが、なんともいえない。岡崎の回想録は出ているのだが、戦後の記載しかなく安保とアラビア石油のことがほとんどで、その意味では決定打ではない。
ただ読んでいる分で、加瀬の間違いであろうというところがある。海軍の高木少将を和平工作の研究にあたらせたのは、米内光政ではなく、次官(?)の井上成美だった。そんな細かいことを米内が出来るわけないのに、こう書いているのは単なる記憶違いだろうか。そういうところから、この回顧録の記録価値が低いように思えてしかたがなかった。
「愛の影は長く」44頁まで。「その山小屋に、彼は十八年の夏に来て……、つくづく思ったものだ」という表現にみられるように、芹沢の作品としては、主人公を「彼」としている。「かわいそうな次郎」という表現に象徴されるように、他人称の場合、主人公の名前であてるのだが、長篇で「彼」と置く作品はきわめて珍しいと思う。そのせいなのか、明らかに人称と文尾の表現がおかしいところがめだつ。「思ったものだった」ならかろうじて間違いではないが、書き手主観になっているので、「僕」とかそういうことばでないと、日本語としてはおかしい。芹沢の場合そういうのが多いから、「とうしろうの文章」と昔から言われるのだから、いまさら指摘するのも野暮かもしれない。
少し仕事の遅れは取り戻す。しかしいろいろ次から次へとでてくるものだ。


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